黒柳徹子の自伝『窓ぎわのトットちゃん』
は戦後最も売れた本らしい。
僕が中学のときにブームになった記憶があるが、
流行りものには「けっ」と反射的に背を向ける
当時の僕は(今もか)読まなかった。
どうせ”いい子ちゃん文学”でしょ、と。
上映されると知ったときも
やはり食指が動かなかったのだが、
先月、この映画の関係者の家に遊びにいったら
前売り券をくれたのだ。
どうしよう、時間ないな、
と思ったのだが、その次の瞬間には
いや観てみようか、と翻意していた。
というのも最近観にいった映画の前に
トットちゃんの予告が流れていて、
妙に気になっていたからだ。
(ちなみに最近観たのは『ゴジラ』と『首』。
感想はどちらも「うーん…」)
予告だけでなんだか泣けてしまった。
まあ昭和前中期の日本が丁寧に描かれていたら、
それだけで僕は涙腺がゆるむんだけど。
映画館で観たらマジで泣けた予告。これを観るだけでも完成度の高さがわかります。
背景はすべて手描きの水彩画だそうな。
というわけで公開初日の先週金曜日に
早速観にいってみたら、
開始10分ぐらいから涙が出始め、
なにこれ? すごいやん、傑作やん、
と終始感嘆し、目も鼻もぐしょぐしょ、
エンドロールが流れ、劇場が明るくなったときは
なんていいものを観たんだ、
という満足感と幸福感で胸がいっぱいだった。
おしゃべりで、ちょっと変わっている
小学校1年生のトットちゃんは、
いろんなことに夢中になるあまり
授業をたびたび中断させてしまう”困った子”。
先生たちの手には負えず、
「お願いだからよその学校に行って」
と頼まれ、転校した先が、自由教育を実践する
当時としては先進的な「トモエ学園」だった。
そこの校長先生と面談の日、
脈絡なくしゃべり続けるトットちゃんの話を
校長先生は延々と聞き続け、
いい加減しゃべり疲れた彼女に、優しくこう言うのだ。
「もうないのかい?」
えっ?と相手を見返すトットちゃん。
その彼女の頭をなでながら、
校長先生はこう続ける。
「君は本当は、いい子なんだよ」
もともとの原作がおそらく優れているうえに、
それをさらに磨いて磨いて言葉を削ぎ落とし、
ブラッシュアップしているから、
短い言葉や何気ないシーンの一つ一つに
深く息をつきたくなるような奥行がある。
“お涙ちょうだい”ではないのに涙が出る。
説教臭さは皆無なのに含蓄があり、
心の奥に染み渡る。
映画としての完成度の高さに息を吞む思いがした。
それともう一つ、この映画が
僕の琴線に触れたのには個人的な理由があった。
4歳の我が豚児がトットちゃんにそっくりだったのだ。
普段こういうのでは泣かない相方の虎キチKも
映画館を出たあと聞けば、
僕同様ずっと号泣で、やはりトットちゃんが
豚児にしか見えなかったらしい。
いや、本当に観てよかった、
いろいろ考えさせられたな、
自分たちは娘に怒り過ぎていたかもしれない、
その怒りの大半は大人の都合によるものだ、
子供の側から世界を見なければいけないよな、等々、
僕らは映画の余韻にどっぷり浸りながら
自戒を込めてたくさん語った。
映画館を出る前と出た後では
目に映る世界が違っていた。
その約3時間後、保育園に豚児を迎えにいき、
そのあと虎キチKが豚児を連れて小児科病院へ。
30分後、保湿剤をもらって帰ってきたと思ったら、
豚児は鼻水を垂らして泣きながらギャアギャア叫び、
虎キチKは目を吊り上げて、
「スマホでゲームやらせてってうるさいねん!」
とブチ切れている、という日常にもう戻っていた。