路上詩人、という人たちがいる。
「あなたを見てインスピレーションで言葉を書きます」というやつだ。
《人間だもの》
の相田みつを先生のように、毛筆で、特徴のある書体で書く。
《大丈夫 あなたは愛されてるから》
《笑顔の君が一番 元気出して》
うう、書いていてつらい……。あ、これはもちろん、ぼくがいま適当に書いたもので、プロの路上詩人たちは当然もっとマシな言葉を書いていると思う。でもこういう雰囲気の詩、というかメッセージが多いような気がする。
彼らが多用する言葉には次のようなものがある。
愛、笑顔、生きる、ありがとう、感謝、平気、元気、大丈夫……
なんというか、まあ、非常にポジティブである。
以前、ひとりの路上詩人に取材をさせてもらった。
彼の場合、料金は決めず、「仕上がりを見て決めてください」とし、それで1日路上で書いて、だいたい1万円〜3万円の収入がある、という話だった。多いときでは1日に6万円稼いだこともあるそうだ。
正直、どうなの? という思いはあったが、ただぼくが出した次の質問「なぜそんなに書いてほしい人が多いと思う?」に対する彼の回答を聞いたときは、何かもやもやしたものが一瞬すっと澄み渡るような感じを受けた。彼はこう答えたのだ。
「たぶん、以前なら友達や親に言われていたことが、今ではあまり言われなくなってるんじゃないでしょうか。ぼくもひとりで、自分を励ましながら生きてましたから」
さて、長くなってしまったが、ここからが本題である。
たしかに上の彼のいっていることには納得もでき、それからは少し違った目で路上詩人たちを見るようにはなった。
でも彼らの作品にシンパシーは感じなかった。誰も彼もみな書いていることが同じに見えてしまう。
ただし、これは好みの問題である。彼らの言葉に勇気付けられる人もたくさんいるのは事実だし、そういう力の作用はすばらしいと思う。
うう……。
じつはたいしたオチじゃないのに、前置きばかり長くなってしまった。
でもまあ、もう少しお付き合いを。
おととい、ぼくの家の前の通りで、ゆうやけ市という祭りが行われていた。
ま、フリーマーケットみたいなものだが、ただでさえ温かい商店街が、インドの賑やかな通りのように一層いい感じになる。
そこに路上詩人がいた。
わが神様、開高健に似た、かなりクセのありそうなオッサンである。
ぼくは歩きながら、ちらり、と作品をのぞき、そのまま通りすぎる予定だったのだが、その言葉が目に入った途端、はた、と足が止まってしまった。
そのオッサン詩人は、あまたいる路上詩人たちとは、はっきりと一線を画していた。
路上で詩を書いて客に渡すという行為に、人を駆り立てるものは、ポジティブなエネルギーだとばかりぼくは思っていたのだが、そうじゃなかったのだ。
シートの上には複数の作品が並べられていたが、ぼくの足を止めた1枚は、よほどそのオッサン詩人の自信作だったのか、きれいな額に入れられ、イーゼルに立てられていた。
そこにはこう書かれてあった。
《人間は糞袋だ》
……これにはシンパシーを感じてしまった。
(でも額に入れるのはどうかと)