隣の部屋に、陰気な感じの男が住んでいる。
まだ若い。学生かもしれない。
彼はアパートのほかの住人に会わないよう、最大限の努力を払う。
廊下で鉢合わせると、顔を合わさないように下を見て、走って自室に入る。あるいは小走りで外に出かけていく。
また、たまたま同じタイミングでドアを開けようとすると、彼はドアの向こうで息をひそめ、こっちが完全に出て行くのを待っている。
以上は、東京のアパートに住む友人から、数年前に聞いた話だ。
そいつは変態か? とぼくは思った。
でも、こういうのは珍しくないのだ、とぼくも東京に住みはじめて思った。
ほかにもいくつかそういう例を見たし、何より。
ぼくの左隣に住むYさんもそうなのだった。
このブログに何度も書いているが、右隣に住む映画監督のMくんとは仲良くさせてもらっている。部屋をしょっちゅう行き来し、酒を飲み、変態話をし、互いの作品を批評し合う。彼の映画にも出る(笑)。ぼくが取材や講演で家を留守にするときは、Mくんは郵便物や宅急便の荷物を預かってくれる。
隣人同士、困ったときは助け合う。これがふつうだと思うのだけど、どうやらMくんとぼくのこういう関係のほうが、東京では珍しいのかもしれない、と最近思うようになった。
左隣のYさんの話である。
1年前に彼が引っ越してきたとき、ぼくはさっそくチーズケーキを持っていった。
逆やろ、という気もするが、それはまあどうでもいい。
Yさんは非常にうれしそうにそのチーズケーキをもらってくれ、立ち話もした。
それからも、人からいろんなものをもらうたびに、右隣のMくんだけでなく、左隣のYさんにもわけてあげた。Yさんはいつも笑顔でもらってくれた。ときには彼と半同棲している彼女さんが出てきて、彼女も笑顔でもらってくれた。
しかし、Yさんも彼女さんも、たまたまぼくと部屋を出るタイミングが同じになると、ドアの向こうで身を固くし、息をひそめるのである。
あいさつも、目が合えば愛想よく返してくるが、家の近くで会って、ぼくが気付かなければ、できるだけ顔を合わさないようにする。
Mくんに対しても同じらしい。
どうやら彼らも、隣人との接触を最小限にしたい、という考えのようだ。
しかしそんな彼らには申し訳ないが、ぼくは往々にして廊下で料理を作る。
(そのわけは
こちら)
それに朝はほぼ毎日、廊下で日光浴をしながらコーヒーを飲み、トーストを食べる。だから彼らは、なかなかぼくとの接触を避けられない。
(こんなことをしているから嫌われるのかもしれないが)
ある夜、Mくんと鍋をしているときだったか、Yさんをなんとかして、ぼくたちの仲間に引き入れよう、と画策したこともある。でもけっきょくぼくたちも遠慮して、彼のドアを叩き、「一緒に鍋でもどう?」とはいえなかった。
そんなYさんと彼女さんが、昨日、出ていった。
引越しをしているあいだ、外の廊下でコーヒーを飲んだが、そのあいだYさんも彼女さんも部屋から出てこなかった。
それからぼくは部屋に戻り、ずっと仕事をしたが、けっきょく彼らはひとこともあいさつせずに、出ていった。
結婚するのかもしれない。
だといいな、と思う。
夕方、オフィスサンマルクに行って原稿を書いた。
ぼくの前の席によくしゃべるおばさんが来た。
えらい賑やかだな、と思って顔をあげると、おばさんはひとりでしゃべっていた。
ここに来ると3日に1度ぐらいはこういう人を見る。
おばさんは携帯でメールを打ちながら、
「今日は、サンマルクに来て、コーヒー飲んでます。あなたは、どこで、何してますか。はい送信。まったく、返事ちっともよこさないから、仕方がないわ。どういうつもりなのかね、ほんとに。あら、トイレ行きたくなってきたわ。でもコーヒーここに置いていって、大丈夫かしら。誰も盗らないかしら?」
まわりの人は、そのおばさんを一度は見るが、それからは彼女の姿が目に入らないようだった。
おばさんはそれから2時間ほど、ひとりでえんえんとしゃべっていた。